1960年 日活
監督 蔵原惟繕 主演 川地民夫、郷鍈治 音楽 黛敏郎パンクラス を録画するため、狂熱の季節 残り55分を見る。
河野典生の「狂熱のデュエット」を、日活ヌーヴェルヴァーグの旗手蔵原惟繕が監督したもの。少年鑑別所を出所したばかりの二人の若者、川地と郷(デビュー作)の姿をジャズに乗せて描く。
無軌道な若者の青春、ジャズの使用、手持ちカメラによる長回し、ロケーション撮影の多用、映画文法を無視した編集と、明らかにこの映画の見かけはゴダールの「勝手にしやがれ」の影響を受けて作られている。ただ基本的には、かっちりとした構成の脚本の元に物語を語っていく映画であり、日活としてもヌーヴェルヴァーグ風味の風俗映画の一本のつもりで製作したのだろう。
だが、古典的な映画文法も学んでいる蔵原は、風俗映画として成立させる一方、ヌーヴェルヴァーグ的な演出をも自分のものとして物語に深みを与えることに成功し、ユニークな傑作に仕上げた。
冒頭の少年鑑別所の建物から始まり、この映画は絶えず川地の上にのしかかってくる存在を意識させるように撮られている。郷と売春婦の彼女、川地が住むおんぼろアパートの穴が開いた天井から振込む隣を通る機関車が発する煤。ジャズが鳴り響く喫茶店の天井。川地は上にのしかかるものを振り払うかのように、盗んだオープンカーを乗り回し、さらった金持ちの女、千代侑子を犯したりするのだが、そこでも究極の上の存在、太陽が夏の厳しい光を川地に浴びせかける。映画の中、再三唐突に挿入される川地らを捉える上からのロングショットが印象的だ。
そんな上から容赦なく降り注ぐものに対して気が狂わんばかりの圧力を感じている川地の正気を保たせているのが、ジャズなのである。ジャズが鳴っていないと、川地は気が狂う。犯した金持ちの女、千代が、ジャズ喫茶にやって来て、子供が出来たと川地に告げ、今交際している男についてあれこれ深刻に語り始めても、川地は表情ひとつ変えないで相手にしないのだが、千代がヒステリックにレコードプレイヤーを止めジャズを止めてしまうと、川地はとたんに正気を失い、ビール瓶を割り千代を刺そうとする。チンピラに言いがかりをつけられても一切抵抗せず殴られっぱなし、郷が入ったヤクザ組織の喧嘩を見て「喧嘩をするのは、ジャズを知らない連中さ。」と嘯く川地なのに。
ラスト、女を幸せにしようとヒットマンに志願し返り討ちにあい死んだ郷との間に出来た子供をおろしに行く女と付き添う川地、病院でこれまた堕胎しに来ている千代とその恋人、長門裕之。長門は、千代から対等な関係になるため長門と関係を持つよう頼まれた郷の女と、誘われるまま関係を持っている。病院のロビーで、中絶反対を求める冊子の中の堕胎された子供の死体の写真と千代と長門のカップルを交互に眺めながら、突然立ち上がって郷の女の手を引っ張って、二人のところに行き、女を交換して、千代を抱きしめながら叫ぶ。
「こうでなきゃおかしいぜ!」
そして笑い始める。千代を放し、手を天に差し向けながら笑い叫ぶ。その姿を上から捉えるショット。ストップモーション、鳴り響くジャズ。THE END
川地を初めとした俳優らの生々しい存在感のある演技と蔵原の見事な演出が、若者の鬱屈と怒りを強烈にスクリーンに叩きつけた。
”(黒人が)一番偉いんだぞ。こんなイカすジャズをつくったんだからな。それを盗んだのは白んぼさ。それをまた真似したってえのが、俺達さ。最低だな、俺達は。最低だよ!”
サタデー・ナイト・ライブ #85 を録画するため、雪崩 残り40分を見る。
水戸は東京を離れ、夫婦二人で生活することを決意し、藤田のいる北国へやって来る。乙羽、水戸を見て身を引くために、発電所をやめる。水戸、乙羽を見て藤田との関係を察する。藤田、水戸に謝るが、水戸は悪かったのは傲慢だった自分だと逆に謝る。自己を犠牲にしてしまった我が身を呪い、乙羽は東京に舞い戻って、キャバレーのダンサーになる。花を口にくわえタンゴを踊っているところに乙羽を探しに来た藤田がやって来る。藤田を見た乙羽、花を落とす。楽屋で、自分は何とか立ち直ろうとしているのに君がこれじゃあ困るではないか、と乙羽を責める藤田。ある晩、乙羽、北国へまたやって来て藤田と水戸に会う。藤田を愛していることを伝え、しかし自分は身を引き、二人の幸せを祈る、これからはちゃんとした自分の人生を歩むと言って去る。その道中雪崩に会って死ぬ。乙羽の遺体を前に泣き崩れる藤田と水戸。バックに流れる音楽は、”アヴェ・マリア”。
物語は傲慢さに満ち溢れ、演出は下品。新藤のもの欲しげな下品な作品作りに利用されるマリア様が哀れ。新藤は人間だけではなく、神をも貶めるつもりなのか?
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