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2018年08月23日
世界を問うこと

「世界的な小説家と批評家が、一九九〇年代半ばに語り合った貴重な記録」と帯に売り文句が書いてあった。この程刊行された『大江健三郎柄谷行人全対話』である。大江健三郎(1935-)の初期の小説は、随分昔に読んだ。ピンと来るものがなくて、その後は一切読まなかった。柄谷行人(1941-)の批評は読んだことがない。

世界的という意味が、ただの売り文句なのか、読者にとって切実な意味を持つ重要なポイントなのか激光美白、わからなかった。しかし、著名な二人についての理解がほとんどないものだから、読んでみようと思った。作品よりも対話こそ、当人の見解を直截的に確認できる好材料だろうという期待もあった。

冒頭の「大江健三郎氏と私」の中で、柄谷は語っている。

「しかし、この対談を読み返して、私は、政治・経済的な次元とは別に、それと関連するとしても、異質な「終り」の問題を見出した。それは「文学の終り」という問題である。むろん、それは近代文学の終りという意味である。近代文学とは、私の考えでは、小説のことである。」(柄谷行人「大江健三郎氏と私」『大江健三郎柄谷行人全対話』所収、講談社、2018年、P.2)

この言葉は、冒頭近くに掲げられたことから見て、柄谷の枢要な問題意識なのだろうと推定した學生優惠。しかし、読み通してみたが、なぜそれが問題なのか、どのように問題なのかが理解できなかった。小説という技術が役割を終えたと言いたいのだろうか。それとも小説を書く目的が途絶えたと言いたいのだろうか。それが私の、今も解けない問いである。

近代化を西洋近代化で被せて言うなら、近代化は西洋技術の導入であろう。小説は一つの西洋の技術である。技術は、当初は神話の如く人々を席巻しても、歴史となれば陳腐化するものだ。小説も例外ではない。しかし、近代化の目的が潰えたとは思えない。明治期以降、日本人が小説でやろうとしてきたように、世界を問うことは、まだ終わっていない。

しかし、柄谷はこう言う。

「僕にとって、批評とは、思考する事と存在することの乖離そのものを見ることでした。といっても、それは抽象的な問題ではなく、日本の近代以降の経験、あるいはファシズムと戦争の経験、そういうものを凝縮した問題だと思うんです電腦座椅。それはいわゆる哲学や、社会科学や、そういったものからは不可避的に抜け落ちてしまう何かです。逆に、批評という形式においてなら、どんなことでも考えられるのではないか、と思ったのです。」
(「戦後の文学の認識と方法」『大江健三郎柄谷行人全対話』所収、講談社、2018年、P.71)

思考と存在との間の乖離とは、まさに問いの源ではないか。彼はそれを批評によって見定めてきたのだろう。彼は批評が役割を終えたとは言っていない。世界を問うことは、今もって近代の目的を見定めた課題なのではないのか。それを批評家がやるのなら、小説家がやって何が悪いのだ。村上春樹の小説作品は、その課題に取り組んだ成果ではないか。リアリズムをもってする非リアリズムに、読者は問いをもち、現実を召喚する。日本人が現実に根を下ろすことは、終わらぬ近代の目的だ。そのために、日本人が世界を問うこと、この課題に取り組む上で、小説という手段が朽ちたとは思わない。

世界的なこの二人は、多分世界を問い続けてきたのかもしれない。その問いは、日本あるいは日本人にも向けられたのだろう。副題にはこうある。「世界と日本と日本人」。対話の底流には、小説の終焉に向けた流れが出来上がっている。この潮の流れに逆らって、小説は終わっていないとする主張は、小説を書く当人が、宣言すべきことだ。批評では、それ以上は言えない。もう小説をまとまって書くことをしなくなったとつぶやく大江と、批評家の柄谷は、その立ち位置を共有している。
[ 投稿者:Ameliachen at 11:52 | Ameliachen | コメント(0) | トラックバック(0) ]

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