
【9条を守るたてしなの会】
たてしなの隣の望月町(現佐久市)の「『望月9条の会(仮称)』準備会」が企画した、「子や孫の時代も平和であることを願う集い--ヒロシマの被爆体験を聞く」に参加して来ました。
実は参加するかどうかすごく迷ったんですけれど(笑)
きのうの記事 とってもいい集会でした。
お話して下さった福永哲也さんは望月西長者原在住の今年74才を迎えられる方です。雑誌「家の光」などで活躍されたジャーナリストで被爆者手帳1級。名刺には「農村と健康と福祉ジャーナリスト」とあります。現役中はヒロシマものの記事を積極的に発表してこられたそうですが、ご自身の体験を発表したことは一切なかったそうです。しかし、戦争体験者の高齢化が進む中、自分にも体験を伝える責務があるとの自覚に至って、現在は積極的に体験を語る活動をされているそうです。
とっても優しそうな人相のいい方でした。お話も、聞き取りやすくてわかりやすかったです。近隣で平和に関する活動をされている方は、福永さんのお話を聞く会を是非企画されたらいいと思います。ちょっと、こういう所に連絡先を書くのはためらわれるので、メールにてお問い合わせいただければ、お取次ぎいたします。
以下に福永さんのお話をかいつまんでお伝えします。
(なお、この記事での写真の掲載や本名の公表などは、ご本人の了解をいただいております。)
私は今年の8月18日が来ると満74歳になります。1945年はもう61年も前のことになりました。でも、死ぬ思いの体験はいつまでたっても鮮烈で、きのうのことのように思い出されます。
最近でもまだ夢に見るんですね。ただ、不思議に当時の人ではなくて最近知り合ったような人が出てくるんです。その人たちを救おうとして必死に誘導している、そんな夢です。
父親は電源開発の仕事をしていて日本中、あるいはときには海外を転々としました。私の兄弟は5男6女。その男の末が私です。1945年当時は、九州の福岡に住んでいました。
その福岡も空襲が日増しに激しさを増し、広島に住んでいる姉の出産が間近だったので疎開先を探そうということで、とりあえず姉の所に行くことになりました。沖縄が6月に陥落し、九州にやって来るのも時間の問題だろうと言われていたような状況でした。それで広島に来たのですが、いったん九州に帰ろうということになったのが8月6日でした。当時私は13才。あと何日かで14才になるというところでした。
朝7時。市電に乗って広島駅に向かいました。よく晴れた明るい朝でした。広島駅のホームに行くと、軍人さんに手助けされて列車に飛び乗ったのですが、気が付くと、それは呉行きに反対方向の列車でした。1駅目で列車から降りて、また広島に戻りました。広島駅で改めて博多方面行きの列車に乗って窓辺に座ったんですが、6分に発車するはずがいつまでたっても発車しないんですね。
・・・・・・そして8時15分。フラッシュのような閃光。ホームにたたずんでいたいた人たちの絶叫。ホームの屋根が崩れ落ちるのが同時でした。
当時、日本の空には米軍の戦闘機がうようよ飛んでいたんですね。そして工場や交通機関、駅などは狙われやすかったんですね。私は原爆なんて分からなかったけれど「しまった!やられた!」と思いました。とっさに床に伏せて観念しました。もうすぐ機銃掃射が始まるだろうと思いました。
でも、シーンとあたりが静まって、何も起こらない。
火山灰が舞うかのようにあたりは暗くなっていました。
そのうちに、人々がうごめき出して、ざわついてきて、「今のうちに逃げろ!」という声がしました。私がいた1番線のホームは血だらけの人が右往左往していました。駅員は当時女性が多かったんですが、女性の駅員が帽子から血を流しながらぶつかりそうになったのを覚えています。ちょうど私のいた車両はレンガ造りの本館の陰にあったので、助かったようですが、その周囲は瓦礫の山と人が右往左往していて、何が何だかわかりませんでした。
駅の外に出てみると、阿鼻叫喚の世界です。傷だらけの人がうようよしていました。安全な所は川かな・・・という考えが浮かびました。川に飛び込めば瀬戸内海に出られるし、水泳は学校の教練でも叩き込まれていました。でも、当時既にいろいろな都市が空襲にあっていて、川に逃げた人の大半は死んでいたという話を思い出しました。
それで、風上に逃げようと思いました。もう獣の勘みたいなものですけれど、風上を探して走りました。駅の方に戻って、駅の裏の丘の方へと逃げました。結果としてはそれが良かったと思います。
丘の方へ行きましたら、やけどの人が集まっている所がありました。上半身やけどの人などに、ひしゃくで油をかけていました。やけどに油がいいなんて初めて知りました。そんなのを見ながら、とにかく走りに走りました。
水道管が壊れて水が吹き出ている所があって、そこに人がたむろしていました。それを見て私ものどの渇きをおぼえて立ち寄りました。そこで3人連れの女子挺身隊から声をかけられました。「どこから来たの?」というので「広島駅から走って来た」というと3人ともびっくりしていました。3人とも怪我をしていました。「あんたは怪我をしていないの?」と聞かれたので、自分の体を触って確かめてみました。血だらけでボロボロなのに、体は何ともありませんでした。血だらけだったのは駅で血だらけの人とぶつかったりしたからでした。
きのこ雲が沸き起こっていました。そのときは、きのこ雲なんて知りませんから、煙だと思いました。それが追いかけてくるような気がして、どこまでも逃げました。
途中で女子挺身隊の人にまた声をかけられました。
「どこに行くの?」
「宇品」
「宇品なんて全滅よ。仕方ないから家にいらっしゃい。安芸中野よ。ここから3里(12km)くらいあるけど」
アキナカノなんて聞いたこともなくて、どこだか分かりませんでしたけれど、お世話になることにしました。
途中、何台も、焼けた死体を積んだ車が通りました。近づくと何とも言えない甘ったるい臭いがふわっとするんです。道にもホコリまみれの死体が何体もありました。段々、そういうものにも平気になっていきました。線路が近道だというのでその上を歩きました。
昼過ぎに安芸中野に着きました。沿道で炊き出しが始まりました。大きなおにぎりを、食べなさいと言って渡してくれました。腹ペコだったからうれしかった。またたく間に夜。親戚などいろんな人が担ぎこまれて来ます。
空襲時などの避難などのため道幅を広げるための建物疎開というのが始まっていて、農家や学生が広島に総動員されていました。原爆の落ちた8時15分は、ちょうど点呼が終わってこれから作業に入ろうという所。大勢の人が屋外で無防備でいた時間でした。
この建物疎開に駆り出されていたこの家のご主人が、戸板に乗せられて運び込まれて来ました。全身やけどで、すごい臭いがしていました。夜、このご主人もいる蚊帳に入るよう誘われましたが、「いいです」としか言えませんでした。その晩は蚊帳の外でそのまま夜を明かしました。
翌日、近くのお寺が避難する人を収容していると聞いたので、そこに行こうと思いました。子どもながらも、この家も親戚などが次々転がり込んできて満員の状態だなと思いました。それで「お寺に行きます」と言うと、「いつまでもいていいのよ」と言ってくれました。でも、お寺に行きたいともう一度言うと、お米1升を風呂敷に包んで持たせてくれました。
お寺に行ってみると、本堂がいっぱいになるほど避難者であふれていました。しばらくすると、隣の家族と仲よくなりました。ちょうど私と同じくらいの年の男の子がいたので、一緒にお寺の中を探検したり、川ですっぽんぽんになって水遊びをしたりしました。お寺でも炊き出しがあって、食べ物には困りませんでした。
灯火管制があって夜は真っ暗ですが、わんわんとうめき声の大合唱になりました。やけどの人が大半でした。
翌日、衛生兵が来て治療を始めました。赤ちゃんを連れたお母さんのやけどの水泡が大きくなっていて、ハサミで切ると中の液体がほとばしって容器がいっぱいになる様子などを見ました。
3日目になって広島の列車が動き出したという噂が流れました。これは結局ウソだったんですけれど。
隣の家族に九州に帰ると言って別れを告げました。そうすると、コンペイトウと水筒に使えるビール瓶をくれました。うれしかったです。それで安芸中野の駅に行くと、列車に人だかりです。私は機関車にかろうじてつかまることができました。そしたら、その列車は少し動いたなと思ったら止まってしまいました。あとは歩いて下さいと言われました。
広島の方は、まだ火事の煙で煙っていました。
私は実は、原爆が落ちたとき、列車の網棚に、教科書と水蜜桃2個とおにぎり2個が入った風呂敷包みを忘れてきていました。それで広島駅にそれを取りに戻ってみました。前日に水蜜桃の配給があったんです。母だけが先に福岡に帰っていました。水蜜桃は母の好物だったので、私は母へのおみやげにしようと思いました。そしたら姉も母にあげたいというので、それで2個の水蜜桃となりました。
当時、原爆が落ちるまでは広島はのどかだったんです。他の都市が空襲でも広島には爆弾ひとつ落としませんでした。空襲前には「爆弾を落としますから広島に逃げなさい」というビラがまかれたりしたくらいです。そうしておいて原爆を落としたんです。あらかじめ人体実験つもりだったんだろうなと疑っています。
広島駅に戻ってみますと、水密桃どころか何もありません。瓦礫があるだけ。瓦礫の間に人骨がごろごろしていました。死骸が多すぎて、何もかけないでむき出しのままの死骸もたくさんありました。市内に入ると黒こげの死骸も多くなりました。
九州に向かって西へ西へ歩きました。煙がくすぶっている中、兵隊が死体の処理を始めていました。市街電車は骨組みだけになっていました。ごろごろと骸骨が転がっているので、私は自分のシャレコウベの形を指で触って確かめてみました。本当にここに転がっているのは人間なんだ、と思いました。
川には死骸がいっぱい浮かんでいました。小舟を浮かべて、兵隊が1人、カギ棒でそれを集めていました。
九州大学の学生と知り合いになり、何となく一緒に連れ立って歩くようになりました。時間がかかってしまって、夕方にやっと市内を横断することができました。お寺でもらったおにぎりを死体のそばで食べました、段々そんなことも平気になっていきました。
己斐駅から折返し運転で列車が動いていました。車内はガラガラで、包帯姿の人もいました。列車が動き出して、緊張がほどけてきたんでしょうか、感情的には何もないんですけれど、瀬戸内海が見えてきたとたん、涙が止め処も無くあふれてきました。きっと、ほっとしたんでしょうね。
夜になって門司に着きました。博多までの列車は明日までないとのことです。仕方ないから、たくさんの人が地下道で寝ていました。私もここで寝るんだなと思っていたら、一緒にいた九州大学の学生が、門司に知り合いがいると言うんです。そこに行ってみようということになり、行ってみると大歓迎されて、カツどんをご馳走してもらいました。1杯たいらげて、「もう1杯食べるかい?」と聞かれて、「ハイ」と答えると、もう1杯出ました。それをまたぺロリと食べてしまいました。
そして、その家で、蚊帳を吊った布団の上で久しぶりに寝ることができました。そしたら・・
ドッカーン!!
とすごい響きがして、ウソじゃなくて私の体も2、30cm浮かび上がっちゃった感じ。飛び起きて足にゲートルを巻いてると「いいんだ、いいんだ、寝ろ」と言われました。翌日、海に出てみると、マストがたくさん海から出ているんです。米軍の機雷で沈められたたくさんの船です。海峡封鎖をされていたんですね。
博多までの列車内で海軍の飛行機乗りの将校と知り合いになりました。私が「日本は本当に勝つかなあ」と言うと、その将校は「勝つ! 絶対勝つ!!」と叫びました。
そうすると、ボタ山の向こうから双発の飛行機が現れたんですね。「敵機だ!」 誰かが叫びました。列車というのは特に狙われるんです。飛行機から打たれると、列車の天井や壁は簡単に破られてしまいます。知り合った将校は、どうかなと思って見てたら、すごい慌てよう。
福岡も空襲で丸焼けになったらしいというウワサが耳に入りました。その将校は「当てにできる人がいなくて困ったら私の所に来い」と言ってくれました。
福岡に着いたら、本当に焼け野原でした。
家は無事でした。
私が現れると、お袋は「まあ、こんな、乞食みたいな格好で」と言いながらもよろこんでくれました。
たった1週間足らずでしたけれど、長い長い旅でした。
原爆って、・・・・・・近づいてくる恐怖はないです。
突然、世界が一変してしまいます。人も街も風景も。
あの1番ボームの人たちの断末魔、絶叫、耳に焼き付いています。それは突然やってくるんですね。
いつか、自分は軍国少年になっていた。そして気がついたときにはひどい目にあっていた。キナクサイ現状ですが、同じ過ちは繰り返さないようにしていきたいと思います。
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ミミズみたいな字で速記してきたのを再現しました。
私の特技なんよ。
私にしか読めない字でメモするんだけれど、48時間以内に書き直さないと私にも読めなくなるのよ(笑)
今、思い出したけど、高遠菜穂子さんの記事の方が長かったね。でも、あれはパンフレットの原稿を貼り付けただけだから。オリジナルな記事に絞れば、史上最長はウソじゃないよ。まあ、このタイトルでいかせて下さい。ご勘弁下さい。
速記と言っても断片的なものでそれを記憶で補ったのがこの記事です。思い違いとか事実関係で間違いがあるかも知れませんが、お話の主軸はお伝えできたのではないかと思います。